道徳教材はきれいごと?
以前、休み時間にある高学年児童と話をしている時に、「道徳で習うことはきれいごとやね」という話題になりました。私も中学生ぐらいの時に同じことを考えていたなあと思い出しました。
その児童は「物事を深く考える子」という印象がもともとあったので、道徳的価値と身の回りの実態をいろいろ分かったうえで、私の考えを聞きたかったのだと思いました。
(読み物を使って)道徳の授業をすれば、例えば次の様な感想が書かれてきます。
Aさん「〇〇さんに意地悪をする子がいて、クラスの他の子は見て見ぬふりをしていたけど、⬜︎⬜︎さんはやめるように言っていた。すごいと思いました。自分もそんな場面で言える勇気を持ちたいと思う。」
あるいは
Bさん「⬜︎⬜︎さんのような勇気を、自分なら持てないと思う。」
単純に解釈すれば、Aさんのように考え、実際に行動できることが望ましいでしょう。しかし、Bさんのように考える理由も理解はできるのではないでしょうか。 行動するための「勇気」が高いハードルであることを、みんな知っているからです。そうなると、問題解決ができている道徳教材が「きれいごと」と感じるのです。
道徳授業は退屈な人が多い?
みなさんは「道徳の授業」に対してはどんなイメージを持たれているでしょうか。
「思いやりや生命を大切にすること、自己の責任を果たすことや公共心を学ぶ時間」という感じでしょうか。けれども「道徳の時間はたいくつだった」とか「自分の考えが変だったら恥ずかしいので、発表をしなかった」という方も少なからずいたことでしょう。私も同様だったと思います。
おそらく、いろいろな意見を先生が認めてくれたとしても、道徳性に照らし合わせると、何かしらの「かくあるべき考えや行動」が容易に想像できてしまうのだと思います。それがわかっているから、高学年になるにつれ意見が出しにくくなるのです。
新しい発見や気づきに乏しければ、授業の魅力は失われます。私が担任だった時していたように、道徳的な価値を一生懸命語ったところで、子どもたちの心が躍動しなかったのだろうと思います。
反対に、「道徳の時間が好きだったよ」という方は、もっと深い部分を考えていたり、授業中の先生の問いかけなどがよかったり、または多種多様な意見交換が行われたりしていたのでしょう。
(続きます)