①道徳教材はきれいごと?
先日休み時間にある児童と話をしている時に、「道徳で習うことはきれいごとやね」という話題になりました。私も中学生ぐらいに同じことを考えていたなあと思い出しました。
その児童は深い考え方ができる子という印象がもともとあったので、いろいろ分かったうえで、私の考えを聞きたかったのだと思いました。
道徳の授業をすれば、例えば次の様な感想が書かれてきます。
A「○○さんをクラスのみんなが無視していたけど、□□さんはやめるように言っていた。すごいと思いました。自分もそんな場面で言える勇気を持ちたいと思う。」
あるいは
B「□□さんのようには、自分ならできないと思う。」
単純に解説すれば、道徳ではAのように考え、実際に行動できることを目指しています。しかし、Bの考えは行動に結び付いていないものの、全否定はできません。
行動するための「勇気」が高いハードルとなっていることを、みんな知っているからです。そうなると、問題解決ができている道徳教材が「きれいごと」と感じるのでしょう。
②道徳授業がたいくつな人は多い
「道徳の授業」に対してはどんなイメージを持たれているでしょうか。
「生命を大切にする心や善悪の判断を学ぶ時間」という感じでしょうか。けれども「道徳の時間はたいくつだった」とか「自分の考えが変だったら恥ずかしいので、発表をしなかった」という方も少なからずいたことでしょう。かくいう私も、同様だったと思います。
今の小学生や中学生だって思っているかもしれません。そのような声は我々教員よりも、保護者の皆様がお子さまから本音を聞いているのではないでしょうか。
当時私の担任の先生は、一生懸命準備して授業をされていたはずです。こうであるべき、という道徳的価値がどうしても先行してしまい、それから逸脱してはいけないという授業の雰囲気が、児童生徒に伝わっていたのでしょう。
道徳には「誠実、思いやり、勇気、規則の尊重、公共心、伝統と文化の尊重、生命の尊さ、・・・・」というテーマがあります。大切なことであるがゆえに逸脱できませんし、親や家族から教えられている場合も多いと思います。
既習事項であるという認識で子どもたちが授業に臨んでいたとすれば、新しい発見が少ないので、たいくつと感じていたのかもしれません。
では、どのようにすれば道徳的価値に沿いながら新しい発見があるのでしょうか?
(続きます)